三菱地所は丸の内を劇場に変え、三國清三シェフは食事をドラマとして演出する。 : ミクニ マルノウチ

この口コミは、ジュリアス・スージーさんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。

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4.3

¥4,000~¥4,9991人
  • 料理・味4.3
  • サービス4.5
  • 雰囲気4.5
  • CP5.0
  • 酒・ドリンク-
2021/09訪問1回目

4.3

  • 料理・味4.3
  • サービス4.5
  • 雰囲気4.5
  • CP5.0
  • 酒・ドリンク-
¥4,000~¥4,9991人

三菱地所は丸の内を劇場に変え、三國清三シェフは食事をドラマとして演出する。

丸の内の歴史と現在が、フランス料理の歴史と現在と出会う、
ミクニマルノウチで。
では、いったい両者にはどんな歴史があり、
また現代とはどんな時代なんでしょう?
今回はそんなお話です。では、順を追ってお話ししましょう。



東京都千代田区丸の内は、西に皇居(旧 江戸城)、東に東京駅のその間に位置し、
かつまた北隣は大手町に、南隣は華やかな繁華街・有楽町にそれぞれ接しています。
丸の内は、江戸時代にあっては徳川家のお膝元の大名屋敷街でした。
明治以降の丸の内は、大手町とともに多くの大企業の本社ビルで埋まり、
長らくもっぱらビジネスユースの街であり、鉄鋼、造船、セメント、非鉄金属、
化学工業など重厚長大産業の本社や、総合商社が集まる日本経済の中心地でした。
ところが20世紀末あたりから産業構造が変化し、バブルは弾け、IT化の時代がはじまります。
隆盛してゆく産業は、半導体関係、製薬、そして株式証券にはじまるサーヴィス業であり、
旧態依然としている銀行はどんどん統合されてゆきます。
いまにしておもえば、やがてインターネット上での
さまざまなサーヴィスが経済の覇権を握ってゆく、いわゆるGAFA四騎士の時代は、
間近に迫っています。
多くの商品が付加価値を要求されるようになり、
機能とエンタメ的要素と、はたまた販売促進がともすれば結びつくようになり、
経済全体がソフト化してゆく流れが生まれます。
他方、長らく主役であった造船、鉄鋼、それらの関連会社の本社は、
コスト削減のためこのエリアからどんどん転出をはじめました。
その背景には、造船においては中国や韓国の台頭があり、
鉄鋼においては依然として日本の技術力は高いものの、
しかし世界各国の鉄鋼業の競合は苛烈を極めるようになった。
そもそもコンテナ船一隻170億円とはいえ、ただし、鉄鋼の価格が跳ね上がれば利幅が削られる、
構造的にリスクを抱え込んだ業態です。
このように業界の現実が厳しくなった結果、
もはや「世界に冠たる造船大国ニッポン」でもなければ、「鉄は国家なり」でも、
まったくなくなってしまいました。
まさかこんな時代が訪れるなんて、誰が想像したことでしょう。


大手町、丸の内の大地主たる三菱地所は、さぞやあせったことでしょう。
なぜなら、この動向は不動産屋とてけっして他人事でいられるはずがありません。
もはや既存のビルを管理し、あるいはビルを建てて、貸して、あるいは売って、収入を得る、
それだけでは生き残ってゆけない時代が始まったのですから。
このままではいけない、自分たちも共倒れになってしまう。
おもえば昭和の丸の内は、もっぱら平日昼間だけ活気がある灰色のオフィス街で、
夜や週末は人っ子ひとりいないからっぽのゴーストタウンだったもの。
真夜中の大通りをネズミたちが駆け抜けてゆきます。
これではいけない。街を変えなければいけない。
かれらは危機感を持ち、20世紀末から21世紀初頭にかけて、
このエリアに大規模再開発をおこなってゆきます。
かれらはもはやかつてのような殿様商売に甘んじる大手不動産屋ではありません、
このときからかれらは都市のプロデューサーに、
そして消費社会のキュレイターになってゆきます。
もしもそれが叶わなかったならば、かれらの資産の価値はどんどん目減りし、
結果、かれらは生き残ることができなかったでしょう。
かれらの威信を賭けた闘いがはじまりました。


三菱地所による丸の内再開発の中心は、なんと言っても、
大正時代に辰野金吾によって設計されたものの、とっくに解体されていた、
煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎の復元です。
そして次に、ていねいに行われているのが、
日本の近代建築の夜明けを告げたジョサイア・コンドルによる煉瓦造りの三菱一号館の復元です。
いずれも煉瓦造りの建築であるのは偶然ではありません。
実は、煉瓦は近代と切っても切れません。
なぜなら、煉瓦はたんに当時の流行素材であったわけではなく、
むしろ、まずなによりも煉瓦は近代そのもので、
なにしろまず最初に煉瓦は、鋳鉄の炉を作るために必要でした。
当時においては、煉瓦造りの炉がなければ鉄砲も軍艦も零戦(ゼロ戦)も作れません。
まず煉瓦をたくさん作れたからこそ、日本は「鉄は国家なり」の時代を勝ち抜くことができたのです。
近現代史のなかで、この煉瓦じたいも炉の用途ごとにさまざまにハイテク化してゆきます。
同時に、三菱地所は、大東亜戦争の戦中/戦後の激動の名残を宿す明治生命館をはじめとした
数々の歴史的名建築を復元し、あるいはリノヴェーションをほどこし、
このエリアをさながら名建築テーマパークのようにリプレゼンテーションしました。


それらと並行して、三菱地所はオフィスビルの低層階にお洒落なレストランやブティックそのほかの
商業施設、文化施設を作り、華やかな街づくりをおこなってゆきます。
かれらはたくさんのお楽しみを取り揃えました。
さまざまな目的に応じた素敵な飲食店を集めたのはもちろんのこと、
スポーツジムもあれば、美容院、エステ、ネイルサロン、SPAも、マッサージもある。
服好きにはブルックスブラザースからポール・スミス、
エルメスからコム・デ・ギャルソンが、
宝石好きにはティファニーが、本好きにはOAZO丸善が、
音楽ファンにはライヴハウス・コットンクラブが、
名画好きには美術館・三菱一号館が、
これは三菱地所の仕事ではなく、またもともとあったものながら、
ミュージカルファンには帝国劇場が、
博物学マニアにはJPタワーKITTE(東京中央郵便局ビル)の
インターメディアテク(無料)に飾られる恐竜の骨格標本が、
それぞれ魅惑の光を放っています。
なお、恋人たちにとっては、JPタワーKITTEの7階屋外庭園で
夜景を眺めるのも楽しいでしょう。(無料。8時閉園)。
また、東京駅と皇居をまっすぐつなぐ広い広い行幸通りから見る、
夜ライトアップされた東京駅丸の内駅舎は、
まるで夜のディズニーランドみたいに綺麗です。


これによって、ファンタジーの趣をともないながらも、
丸の内は〈近代日本の象徴、大日本帝国の帝都の中心〉として甦るとともに、
あいかわらず丸の内は現代日本をリードするビジネスの中心地であり続け、
しかも、いまやはなやかな〈消費と文化の都〉にもなって、
そんな万華鏡的演出が奇跡のように成功しています。
いまや丸の内は、必ずしもこの地域で働く新聞社の社員や、
さまざまな企業のビジネスマン、キャリアウーマン、OLのための場所であるのみならず、
他方で、よそから人びとがお楽しみを求めてやってくる場所にもなりました。
しかも、いまや、昼も夜も、平日も祝日も、いつも賑やかです。
こうして丸の内は変貌しました、仕事と遊びがボーダーレスにつながってゆく時代にふさわしい姿に。
振り返れば、再開発ガイドラインが制定されたのが2000年、
それに先立ってミクニマルノウチは1999年12月に開店しています。
2002年の丸ビル建て替え、そして
2004年のOAZOのオープンを、再開発のスタートラインと見ることができるでしょう。


三菱地所の作戦は大成功したと言えましょう。
なぜなら、たとえオフィススペース需要だけ考えてみても、
場所の付加価値を上げておかないと、
借り手は埋まらず、おのずと値崩れしてしまいます。
なにしろとっくに東京のオフィススペースは供給過剰なのですから。
しかし、IT関係を筆頭にコロナによるリモートワーク増とオフィス縮小傾向のなかにあって、
港区、渋谷区の不動産事情にはいくらか危機感が生まれているなか、
しかし、丸の内人気はかなりなところ持ちこたえていて。
ロンドンよりもマンハッタンよりも清潔で気持ちのいい街として(?)、
ほとんどしっかり借り手で埋まっています。


さて、そんな丸の内にあって、とりわけ三菱一号館、ブリックスクエアのあたりには
もっとも華があります。
ロブションのカフェ、華麗な花ばなを揃えたブティックみたいな花屋HANAHIRO(花弘)さん、
そして中庭にはいかにもヨーロッパ的に植物が緑ゆたかにアレンジされ、
ちいさな噴水があって、
さりげなく彫刻も飾られています。奥には煉瓦造りの美術館、三菱一号館。
そしてその中庭に面した2階にミクニマルノウチはあります。
日本を代表するフランス料理人、三國清三シェフが監督する、
札幌、東京、横浜、伊豆高原、軽井沢、名古屋などにある、
ミクニレストラングループ8つのうちの
(あるいはプロデュース店を含めればさらに多くの店のうちの)ひとつです。


さぁ、外階段を上りましょう。
エントランスを入ると、レセプションの綺麗な女性が予約確認とともに、
ぼくを案内してくれます。輝くばかりの現代的なキッチンで、
純白のシェフコートの料理人たちが仕事をしておられます、
まるで料理人ドラマのように。
メインダイニングの壁面はガラス窓で、
明るい陽射しが差し込み、
中央には華麗な生花が飾られています。
一階のお花屋さんHANAHIROさんのお花でしょう、
アレンジはフラワーアーティスト・細沼光則さんのダイレクションだそうです。
対面式の各テーブルの中央にはアクリル板がしつらえられています。
年配のソムリエ兼給仕長の落ち着きあるサーヴィスをはじめ
スタッフは全員清潔感があって物腰も紳士的です。


さて、ぼくはテーブルに着きます。
いつものぼくはTシャツにハーフパンツにゴム底サンダルの、
いい歳をしたろくでなしだけれど、
しかし、きょうのぼくは白のドレスシャツにタイを締め、
麻のジャケットを着て、イタリア製の革靴を履いています。
しばらくするといつもの女友達が微笑みながら現れます。
きょうの彼女は、純白のブラウスに、
赤と青のコントラストがリズミカルな小花模様のロングスカート、
そしてピンクのパンプスです。


ミクニマルノウチは、徳川幕府が開かれて以来、
同じ種を使って作られている江戸東京野菜(練馬大根、早稲田茗荷、寺島茄子、
馬込三寸人参など50種にのぼる野菜)の魅力をアピールすることをコンセプトに、
ランチでは現在、2000円のセットと、コース4000円、5000円、6000円を
提供しておられます。(値段はすべて内税。ただしサーヴィス料10%が乗ります。
たしかにこちらはそれにふさわしい品格あるサーヴィスをなさっておられます。)
なんてひかえめな価格設定でしょう。
土地代がえらく高いこの場所ゆえ、ぼくはちょっと料理の内実が心配になりますが、
いいえ、それはまったく杞憂であることがやがてわかります。
ぼくらはふたりとも4000円、魚メインの4皿コースを選びます。
これがどれだけすばらしいコースであるかは後ほどゆっくり語りましょう。
とりわけぼくは、
「スズキのポワレ、スイスチャード(不断草)巻き、ブイヤベースソース」、
そのむっちりしたスズキの白身肉の味わいと、実にフランス的なうまみの深いソース、しかも、
塩っぱくなる寸前でありながらけっして塩っぽくは感じさせない絶妙の塩使いに感動したもの。
料理のスタイルは、けっしてバターと生クリームたっぷりの、
いわゆる王道フレンチにありがちなものではなく、
むしろ(ソースの量が多すぎず少なすぎずであることもあいまって)
ほど良く軽めに仕上げてはありますが、それでいてうまみは深く、
そのうまみの深さはとってもフランス的で、
しかも構成には華やかさがあります。
料理のみならずサーヴィス全体のクオリティの高さは、
ひかえめな価格帯に対して、原価計算、奇跡の離れ業としか言いようがありません。
そのときぼくの耳に三國シェフの声が聞こえてきた。
ぼくはその声に心を動かされずにはいられなかった。
いいえ、順を追ってお話しましょう。


三國シェフは、1954年北海道、旭川の西、
日本海側の、増毛(ましけ)に生まれました。
冬になると吹雪が吹き荒れる土地です。
漁師のコドモであり、7人きょうだいの三男、
夏はいつも裸で走り回る元気なコドモだったそうな。
かれの家は貧しく、高校にも進学できない。
さぞや悔しかったことでしょう。
かれは札幌へ出て、米屋の丁稚奉公をはじめ、
夜、調理学校に通った。
奉公先の栄養士のおねえさんが作ってくれたハンバーグなるものを、
その茶色い不吉な料理をかれは恐る恐る食べてみて、
わ、わわわ、おいしい、肉汁が出て来る、
肉も肉汁もおいしい、すごくおいしい。知らなかった、
こんなおいしい料理が世のなかにあったのか、と大感動したから。
おねえさんは言いました、わたしのハンバーグもおいしいかもしれないけれど、
でもね、札幌グランドホテルのハンバーグは、わたしのよりも百倍おいしいのよ。
三國少年は目を丸くします、ひゃ、百倍!??
その日からかれはもうなんとかして札幌グランドホテルで働きたくてたまらない。
やがて調理学校の最終授業で、札幌グランドホテルの見学があります。
この日クラスのみんなとともに見学していたかれは、
ひとりこっそり仲間から外れて、
そこでかれは、やんちゃな少年ならではの無鉄砲、
ほとんど奇策とも言うべき型破りな方法で、自分の情熱を切々と訴え、
「北の迎賓館」と呼ばれる札幌グランドホテルの、
従業員食堂の飯炊きアルバイトに潜り込むことに成功します。
翌日からかれはごはんを炊き、仕事が終わった後はホテル内の各セクションのあらゆる鍋を洗った。
洗って、洗って、洗いまくった。
無理やり職場に入らせてもらった少年のかれには、
それしか誠意を示すすべがなかったから。
実は、鍋洗いはただの雑役ではなく、さまざまな料理人たちの、
ありとあらゆる料理の味を覚えることができる、願ってもない機会でもありました。
もっとも、料理人のなかには自分の味を盗まれてなるものか、と、
あらかじめ洗剤を一振りしてから鍋を洗い場に出す人もいる。
それでも気のいい料理人は、がんばって勉強しろよ、
と後輩のためにそのまま鍋を出してくれる。
やがてかれはその奮闘が評価され、正社員になります。
かれはさらにいっそう夢中になって仕事を覚え、
すでに18歳のときには仕事のできる、いっぱしの料理人になっていました。
とうぜんかれには、同世代の高卒入社の料理人たちが、
甘ちゃんのぼんくらお坊ちゃんたちに見えます。
かれは喧嘩に明け暮れた。


上司は呆れ、かれをいささかもてあまし(?)、
きみにそんなに料理への情熱があるならば、
と、東京の帝国ホテル、村上信夫総料理長への紹介状をかれに書いてくれた。
かれは大都会東京のきらめく一流ホテルに入り込む。
なにしろ帝国ホテルは、明治19年(1819年)に、
日本政府が和魂洋才をとなえ、近代化を急ぎ、不平等条約解消に必死になるなか、
欧米人をもてなすために、なかば国策として作られたホテルです。
すなわち、西欧人に日本国が一流であることを証明しなければならぬ、
という使命とともに作られたホテルです。
かつては隣に、鹿鳴館がありました。
三國青年が洗い場に入り込んだ時代には、すでに客室が700、宴会場、結婚式場、
メインダイニングのほか計18のレストラン、
おまけにかっこいいバーもラウンジあり、料理人がなんと750人もいる競争社会です。
そこでまたかれは3年間の下働きに耐え、夜中まで多くの店の鍋を洗った。
また鍋洗いだよ、と自嘲に明け暮れながら。
しかも、そんな日々がなんと三年も続いた。
出世の見込みはまったくなさそうだった。
これが東京なんだ。
おれはボロクズみたいに使われて、使われて、擦り切れ果てて使い捨てられるだけだ。
わかったよ、もうわかった、増毛に帰ろう。何度もそうおもった。
しかし、そんな日々のなかでも、ちゃんとかれの奮闘を見ていた人はいた。
村上信夫総料理長である。ここでかれはスイスの日本大使館の料理長に抜擢されます。


そんな日々のなかかれは、大使館が休みの日曜日、
スイスの山のなかローザンヌにある
創造性に富んだスター・シェフ、スイスのジラルデのレストランへ行き、
なんとかしてジラルデ・シェフに会おうとする。
ジラルデは、スイスの山奥のレストランでありながら、
グルメたちにとっては予約を取ることが至難で、
なんとかして予約を獲得した客が、夜になったら毎日現れる。
他方、ジラルデ・シェフは、
スイスの山奥のレストランに、毎朝届けられるその日の食材を見て、
かれはその日のメニューを組み立てる、即興性を重んじるシェフだった。
三國はなんとかしてジラルデの料理の秘密を知りたい。
だから三國はレストランの前に座って待った。
結果、ジラルデに会えはしたものの、すぐに門前払いされる。邪魔者よ、去れ。
それでも三國はあきらめない。結局、ジラルデ・シェフが根負けして、
三國の首ねっこをつかんで洗い場へ突っ込む。
この日から、三國は日曜ごとにジラルデで鍋洗いの日々がはじまる。
他方、スイス大使館では、ジラルデに学んだ料理を作り、ますます評判を上げる。
けっきょく、スイス大使館での任期を終えた後は、
まんまとジラルデでフルタイムで働く機会を得る。
こうして三國は、ヌーヴェルキュイジーヌ中期の、
ターニングポイントの時期にあって、もっとも影響力のある料理人の下で働くようになる。
そのうえ、その後かれははひじょうに斬新な発想で、
新しいエレガンスを作り出したアラン・シャペルに学んだ。
と同時に、アラン・シャペルは頑固一徹なフランス主義者で、
「どれだけがんばろうと日本人にほんとうのフランス料理を作ることなど無理だ」
と三國に言い放ち、三國は深い挫折感を与えられます。
かれにとってこの挫折こそが、なんとしてでも乗り越えるべき試練となった。
やがてかれは気づいただろう、
もう修行を続けている時期ではない、これからは自分の料理を作るんだ。


そして三國は1985年帰国するやいなや、柴田書店をはじめとした業界の期待の星となって、
かれのメゾン、オテル・ドゥ・ミクニを開業。
しかもとんでもなく意表を突いた場所が選ばれました。
JRおよび東京メトロ四ツ谷駅から400メートル足らずの場所とはいえ、
「新宿区若葉1-18」という住所を覚えておかなければとうていたどりつくことはできません。
まさかこんなところにレストランがあるはずがない、というような
閑静で地味な低層住宅街のなかに、
オテル・ドゥ・ミクニは忽然と現れるのだ。
なるほど、ヨーロッパの星つきレストランの少なからずは
たいそう突拍子もない場所にあるものではあるけれど。
この場所選びだけでも、三國シェフの強気がわかろうというもの。
そして翌年、かれは『皿の上に、僕がある。』という豪華な料理本を出版。
当時日本では(おもに辻静雄さんの啓蒙によって)噂のみ知られていた、
1973年にフランスで名づけられた料理の革命「ヌーヴェルキュイジーヌ」を、
このとき、日本のフランス料理ファンは身をもって体験することになります。
(いいえ、より正確に言えば、すでに1970年代そうそうに、
三國シェフのひとつ上の世代の数人のシェフたちが、
フランス修行から帰国し、日本にヌーヴェルキュイジーヌの流儀を持ち帰ってはいました。
かれらの動向は料理業界の注目を集めてもいました。
しかし、一般社会への影響力においてはやはり圧倒的に三國シェフであり、
そしてまたそこには三國シェフがデビューした1980年代後半の日本の、
円高とともにバブルへ向かってゆく猛烈な活気をともなった追い風もまたありました。
いまにしておもえば、それはソニー、ホンダ、トヨタ、パナソニックに代表される、
モノ作り大国日本がピークへ向かう時期でもありました。)
そうか、これがポール・ボキューズたちの起こした料理の革命だったのか。
それまでのように、きまりきった定番料理を職人として競い合うのではなく、
また、それまでのように寸胴鍋で各種のソースを大量に作り置きするのではなく、
そのときその場のお客様のために、その場その場でフレッシュな料理を仕上げる。
そしてなによりも、ヌーヴェルキュイジーヌによって、
他ならないそれぞれの料理人が自分ならではの独創的創造性を競い合う、そんな時代が始まった。
このときから料理人たちの地位もまた、それまでのような地下厨房の肉体労働者ではなく、
ステージのようなキッチンに立つ、純白のシェフコートを着た芸術家となった。
フランスで起こった料理の革命を、日本のフレンチレストランもまた追いかけてゆくようになります。
さらにはそんなトピックが、ファッション雑誌や
カルチュア誌を読む一般大衆の興味を惹くようになってゆきます。
やがて1990年にバブルは弾けたものの、まだ浮かれた気分の残っていた1993年に
やがて一世風靡してゆくテレビ番組『料理の鉄人』がはじまりますが、
しかし、三國シェフはオファーを断っておられます。
そこにも三國シェフの質実な料理観が伺えます。
すでにたいへん有名シェフだったかれに、それ以上のテレビでのプロモーションは必要なかったのでしょう。
当時の三國シェフは入念に研いだナイフのように鋭かった。
風貌から、料理への燃えさかる情熱が、闘魂が、ほどばしっていた。


ここでヌーヴェルキュイジーヌについて付言するならば、
フランスという国は、重厚長大産業が弱く、
むしろもともとマティス、ピカソ、ゴッホ作品を世界の美術館に貸し出すことによって
莫大な外貨獲得をし続けている国で、
同時にファッション、ワイン、お菓子、料理などのほんらい小商いだったはずのビジネスを、
洗練させ、文化と銘打って商品価値を上げながら、稼いできました。
すなわち、もともと畜産、チーズ、そしてワイン、はたまた
小麦、とうもろこし、杏、林檎などの農業生産と
そして文化芸術で喰ってきためずらしい国です。
たとえば、ブランド帝国LVMHを築きあげたCEO、ベルナール・アルノーのような人物は、
まさにフランス的資本主義を体現しています。


また、三國シェフについてもっとも重要なことを忘れてはいけません、
三國シェフはけっしてただたんにフランス料理の最新流行を輸入したのではありません。
かれが一貫しておこなっていることは、
〈日本人である三國清三という一個人が、
かれによって解釈され肉体化されたフランス料理の世界を、
日本人三國清三の表現として提供すること〉。
あけすけに言えば、いまさら鹿鳴館をやったところで意味などどこにもありません。
かれのそのフィロソフィは、旗艦店オトゥル・ドゥ・ミクニの、
趣あるエントランス、力強い松をあしらった庭、内装、
そしてもちろん料理を見れば一目瞭然です。
三國の登場によって、日本のフレンチは変わりました。
むろん同時に、この時代の日本もまた、明治から連綿と続く文明開化、
西欧化のステージとは、
違う局面に立ちつつありました。
1990年あたりを境に、かつての重厚長大産業の時代はなかば去って、
始まりつつあるITの時代、そしてそれにともなった
金融、情報、ソフト化、サーヴィス化の時代のなかで、
日本人もまた自分自身についてあらためて考えはじめます。
欧米人たちが評価しおもしろがるジャポン、
クルマと電化製品、アニメとアイドル、そして鮨とコンビニから成る不思議の国ジャポンを、
日本人として、少し得意に、いくらかおもはゆく感じながら。


あれから35年が経ちました。
とっくに三國清三シェフは名実ともに世界一流の料理人として知られています。
洗練された美意識、ウィットに富んだ創造性、人を惹きつける魅力、
身についた帝王学とともにある統率力、
一店舗ごとに違ったイメージをまとわせた店舗を数多くプロデュースする力、
そしておそらくはそんな三國シェフであってなお、
経営的には何度となく困難に見舞われもしたでしょうが、
しかし、どんなときであっても、かれには支持者がちゃんといます。
三國清三シェフは現代ニッポンの文化遺産にほかならない、
もしも苦境にさいなまれるかれを誰もが見捨てるならばそれはニッポンの恥だ、
と、考える人たちが一定数いることがわかります。
三國シェフもまたいつなんどきも社会貢献を忘れることなく、
食育をはじめとした事業もちゃんと果たしておられます。
かつては入念に研いだナイフのようだった三國シェフは、
しかし、いまでは、(ぼくの女友達が言うところ)、
まるでサンタクロースのように幸福を分け与えてくれる素敵な紳士に見えます、
とくにかれのYOUTUBE番組のなかでは。
https://www.youtube.com/channel/UCftLOohXnznK4tDXqT-Yt_w
もちろんぼくも同意見です。(もっとも、かれの下で働くスタッフたちには、
まったく違った意見があることでしょうが。)
そしてかれのYOUTUBE番組が、かれが生涯にわたって敬愛する村上信夫総料理長の
かつてのNHKでの国民的人気フランス料理啓蒙番組の継承であることがわかります。


ぼくには興味深いことがあります。
フランス料理の世界には、人生後半二十余年のロブションや、
早くからのアラン・デュカス、いつ頃からかのピエール・ガニエールのように、
カリスマとなって、自分自身をブランド化して、実業家になって、
もっぱらライセンス契約でもって、契約店舗の事業が儲かろうが失敗しようがおかまいなしに、
そしてまた一切野菜にも肉にもナイフにもフライパンにもオーヴンにも触らず、
しかも、自分のカネではなく他人のカネで自分の世界を表現して豪快に遊ぶ、
そんなスターシェフたちがいます。
かれらの配下には自分の息のかかった、
訓練された料理人たちが世界中にすらりと揃っていて、
いったん指名され、使命を与えられれば、
ビッグ・ボスの指示にしたがって兵隊として働きます。
あるいはある面では三國シェフも日本国内においてある程度そういう位置におられるのかもしれません。
しかし、三國シェフの場合は、どちらかと言えば、ライセンス契約をそれほどには好まず、
むしろ、自分で経営責任を背負いながらレストランビジネスを展開なさっている印象があります。
だからこそ、三國シェフはご高齢のいまなお料理青年の魂を捨てず、
旗艦店、四ツ谷のオテル・ドゥ・ミクニの厨房で、そしてYOUTUBEの画面のなかで、
毎日かれは自分でナイフを持ち、フライパンを振っておられます、
料理の仕上がりが上々ならば、にっこり笑顔で「グーです♪」なんて言っちゃって。
しかも三國シェフのその燃え盛る料理魂が、プロデュース店舗のひとつひとつの料理にさえも感じられます。
じっさい、たとえプロデュース店舗であっても、ひとつひとつの料理に創造性が付与されていて、
しかもその魅せどころがこまやかで、
かつまたクオリティコントロールがゆきとどいています。
ミクニの名前を冠したお店で、その内実に、
いかにも名前貸し(中身なし)と感じたことは、少なくともぼくは一度もありません。
むしろ三國シェフは、たとえプロデュース店舗であっても、
ご自分の燃え盛る料理魂を、そしてグランメゾンがどうやって、どのように
人びとを魅惑するのか、その秘密をご存じの
かれならではのサーヴィス哲学を、店に、スタッフに
できる限り植えつけたいのではないかしら、
おそらくは非常に具体的な指示とともに。


どんな時代であろうと、かれは生涯料理を続ける人であったことでしょう。
とはいえ、ほんらいだったらいまごろかれは、人望厚い名士として、人生の円熟期を余裕たっぷりに
過ごしておられるはずではあったことでしょう。
ところが去年から蔓延しはじめた疫病がかれにそれを許さない。
業界受難の現状をおもいだしてみましょう。
いまにしておもえば2019年大晦日に
ハイアット リージェンシー 東京のキュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロが閉店したのが、
長く続く厳しい冬のはじまりでした。
(せめてもの救いは、小田急百貨店新宿本館8階のカフェ・トロワグロがその世界を継承していること。)
続いて芝公園のクレッセントが63年の歴史に幕を下ろし、
吉祥寺井之頭公園そばで33年間愛された芙葉亭が息絶えた。
低価格で肉料理のおいしさを知らしめ、
一時は予約の取れないレストランだった池尻大橋のOGINOも、
経営拡大が裏目に出てかつて降り注がれた夢のような幸運もこれにて尽き果てた。
しかも系列店のデリカテッセン、ターブル・オギノの渋谷店、品川店など3店舗も閉店、
わずかに湘南店を残すのみとなった。
さらには東京の名門シェ・イノが運営する渋谷のマノワールディノが扉を閉め、
ニースで3店のビストロを持つ松嶋 啓介シェフの東京、神宮前の拠点
KEISUKE MATSUSHIMA も持ちこたえることが叶わなかった。
そのうえタテルヨシノは汐留パークホテル東京店が、そして銀座店が相次いで消滅した。
さらにはKADOKAWAが出資したイノヴェーティヴフレンチINUAも3年間の営業をもって幕を下ろした。
むろん悲劇は東京に限らない、象徴的な事例のみ挙げるならば、北海道の風光明媚な地で
フランス料理の21世紀を切り拓いた、
あのミシェル・ブラス・トーヤ・ジャポンさえもが潰れてしまった。
なんとか営業を続けている多くの店もどこも苦しいことは明らかです。
いまや、世界に誇るべき日本のフランス料理の高みは崩壊寸前です。


そんななか業界をリードする三國シェフは、
旗艦店オテル・ドゥ・ミクニはもちろんのこと、
さまざまな直営店、プロデュース店を率いるお立場上、
たいへん厳しいステージに立たされておられることでしょう。
しかし、ミクニマルノウチは、お客にはまったくそんな過酷な文脈を感じさせることなく、
準グランメゾンと言うべき優雅な空間で、上品な接客とともに、
ヌーヴェルキュイジーヌに源を発する、モダンクラシックな王道フレンチを、
それでいて、いまっぽい演出をほどこしながら、
とくにランチにおいてはこのひかえめな価格帯で提供しておられます。
おそらくは他の系列店も同様ではないかしら。
ぼくは畏怖の念にとらわれるとともに、
ぼくの耳に三國シェフの声が聞こえてきた。
「もしもいまぼくがこの受難に屈服したならば、
日本のフレンチの一流の基準が崩れてしまう。
そんなことはさせない。絶対にさせない。」
いいえ、それはじっさいに三國シェフがそうおっしゃったわけではありません。
けれどもぼくの耳はたしかに聞いたのだ、三國シェフの、
優しく、深みのある、力強いその声を。


最後にこの日の4000円コースの詳細に触れておきましょう。


1)冷製 ポタージュ。パリの夕暮れ(パリ・ソワール)
薄底のスープ皿に、じゃがいものピュレを豆乳で伸ばしたポタージュが注がれ、
スープの中心に、イクラ、コンソメのジュレ、ブラックペッパー、
ネネギの緑が飾られています。
清楚なおいしさが料理名の詩情を表現しています。


2)冷製 真鯛のマリネ、グリーンマスタードと、
淡雪みたいなレモンのエスプーマソース。

優美で繊細な料理。中間色的味わいのコントラストとも言うべき、
構成もまた上品です。


3)スズキのポワレ、スイスチャードで巻いて。
イカ片、ホタテ、各種野菜のフリット、
そして煮詰めたブイヤベースソースを添えて。
うまみの深いソースのすばらしさに、ぼくは悶絶した。
フランスレストラン料理を好きで良かった、と、ぼくは心底おもった。


バゲッドは外皮がカリッと警戒で香ばしくて、それでいて内側はふっくらとおいしい。
もう一種のパンはふかふかに柔らかく、2種の味わいには穏やかなコントラストがつけてあります。


4)キルシュとマンゴーのムース。そしてヴァニラアイス。
イチゴ、グレープフルーツ、キーウイ、イチジク、ブルーベリーの各小片、
ホワイトチョコレートの小片群に純白の粉砂糖を降り注いで。
構成が華やかで優美なおいしさです。


そして最後に、ぼくはエスプレッソを、
彼女はハーヴ系のフレーヴァーティーを選び、
幸福な時間を〆た。なお、ぼくもフレーヴァーティーを一口いただいたところ、
いかにも三國シェフらしい繊細で優美な香りだった。


Eat for health,performance and esthetic
http://tabelog.com/rvwr/000436613/

  • ミクニ マルノウチ -
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ジュリアス・スージー

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店舗情報(詳細)

店舗基本情報

店名
ミクニ マルノウチ(mikuni MARUNOUCHI)
ジャンル フレンチ、ステーキ、ワインバー
予約・
お問い合わせ

050-5597-3247

予約可否

予約可

住所

東京都千代田区丸の内2-6-1 丸の内ブリックスクエア ANEX 2F

交通手段

JR東京駅南口 徒歩5分/JR有楽町駅東口 徒歩5分/地下鉄千代田線二重橋前駅1番出口 徒歩3分

二重橋前駅から198m

営業時間
    • 11:00 - 15:30

      L.O. 14:00

    • 17:30 - 23:00

      L.O. 21:00

  • ■ 定休日
    不定休(丸の内ブリックスクエアに準ずる)
予算

¥10,000~¥14,999

¥4,000~¥4,999

予算(口コミ集計)
¥10,000~¥14,999

利用金額分布を見る

支払い方法

カード可

(VISA、Master、JCB、AMEX、Diners)

電子マネー可

(交通系電子マネー(Suicaなど)、楽天Edy、nanaco、WAON、iD、QUICPay)

QRコード決済可

(PayPay、d払い、楽天ペイ、au PAY)

サービス料・
チャージ

サービス料10%

席・設備

席数

50席

個室

(2人可、4人可、6人可、8人可)

個室は6名様まで利用可能ですが、4名様をおすすめしております。 ランチコース\6900~、ディナーコース\9,000~のご案内とさせていただきます。 ※9/1からご14名様迄ご利用可能の個室が出来ました。利用条件・個室料等詳しくはお電話にてお問い合わせください。

貸切

(50人以上可)

禁煙・喫煙

全席禁煙

近隣に喫煙スペースあり

駐車場

提携駐車場:丸の内パークイン 割引サービスあり

空間・設備

オシャレな空間、落ち着いた空間、バリアフリー、車椅子で入店可

メニュー

ドリンク

ワインあり、カクテルあり、ワインにこだわる

料理

野菜料理にこだわる、英語メニューあり

特徴・関連情報

利用シーン

接待 知人・友人と

こんな時によく使われます。

ロケーション

景色がきれい

サービス

お祝い・サプライズ可(バースデープレート)、ソムリエがいる

お子様連れ

お子様は小学校高学年以上からのご案内とさせて頂いております。

ドレスコード

スマートカジュアルでお願いしております。
短パン、ハーフパンツ、Tシャツ、サンダル等でのご入店はご遠慮頂いております。

ホームページ

http://www.mikuni-marunouchi.jp/

オープン日

2009年9月3日

電話番号

03-5220-3921

備考

いつもご愛顧いただき誠にありがとうございます。
2023年6月より、グランドメニューとプランの一部を価格改定させていただきます。皆さまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解のほどお願い申し上げます。
また、グランドメニュー価格改定に伴い、食べログサイトの一部プランも価格改定しております。
誠に恐れ入りますが、ご理解の程よろしくお願いいたします。

また、ランチタイムのご利用時間は2時間制でございます。
予めご了承ください。

初投稿者

ryokuryoku(714)

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