ウィーンの森の物語さんが投稿した魚菜料理 縄屋(京都/峰山)の口コミ詳細

美食考察記:科学的見地・文化的見地、双方による美食の考察

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魚菜料理 縄屋峰山/日本料理

2

  • 夜の点数:5.0

    • ¥20,000~¥29,999 / 1人
      • 料理・味 5.0
      • |サービス 4.2
      • |雰囲気 4.6
      • |CP 4.2
      • |酒・ドリンク -
  • 昼の点数:5.0

    • ¥10,000~¥14,999 / 1人
      • 料理・味 5.0
      • |サービス 4.2
      • |雰囲気 4.6
      • |CP 4.2
      • |酒・ドリンク -
2回目

2016/10 訪問

  • 昼の点数:5.0

    • [ 料理・味5.0
    • | サービス4.2
    • | 雰囲気4.6
    • | CP4.2
    • | 酒・ドリンク-
    ¥10,000~¥14,999
    / 1人

志高き料理人

私がこれまで最も通い詰めている日本料理店の一つである縄屋について書いてみたくなった。
本場である京阪神には優れた腕を持つ職人が数多いるにも関わらず、なぜわざわざ京丹後の地にまで足を運ぶのか?
私の日本料理に対するスタンスを踏まえつつ、縄屋の持つ魅力を以下に明記することにする。

縄屋の御主人である吉岡さんの修業先は京都の和久傳。
多くの優れた料理人を輩出していることでも知られる京都を代表する料亭の一つではあるが、
実は、発祥の地は丹後峰山町の和久屋傳衛門の始めた旅館がルーツであり吊前の由来である。
同じ峰山の地で生まれ育った御主人は、地元の食材を使用した料理を振る舞うことで、
創業の地を盛り上げる意味もあり、若干32歳の若さにして縄屋を開業された。

吉岡さんは日本全国で見ても稀有な才能を持った料理人の一人であることは疑う余地がない。
料理のベースは修業先の和久傳であるが、「魚菜料理」と看板にあるように、
地元をはじめ全国から直送される質の高い魚と、
主に自家菜園で作られる有機野菜を組合せ、独自のスタイルの料理を構築している。
食材の組み合わせが斬新な料理ではあるのだが、
個々の素材を活かしきるという基本のスタンスが徹底しており、
魚そのもの味付けは最低限とし、野菜の持つ、旨味、苦味、辛味等を付与することで、
魚本来の持つ旨味と、これまで気付かなかった新たな魅力を十二分に引き出している。
また、富士酢で有名な地元の飯尾醸造の酢や醗酵の要素を取り入れ、
酸や醗酵による旨味により、コース全体に緩急、抑揚をつけている点も見逃せない。

模写は上手いが自身の作品は描けない画家と同様、
料理人にも修業先の料理の再現する能力は卓越しているが、オリジナルの料理が作れない料理人も多いと聞く。
吉岡さんの料理は、従来のやり方や流行りの食材に安易に捕らわれることなく、
自由でありながら理論的、大胆でありながら緻密、
斬新でありながら基本に則った発想と調理法に基づく、独自性が何よりの魅力。
以下に、食材、調味、出汁、火入れ、お造り、器及び設え、接客、その他留意点等も含め、
その魅力を私なりの視点で具体的に述べたいと思う。

まず、食材について。
縄屋では、春は筍に山菜、夏は鮎や鱧、秋は松茸…といった、
巷の日本料理店では、その時期になるともなると、必ずといって良いほど出される、
主役の食材が当たり前に出される訳ではない。
更に言えば、どのような食材、料理が出されるかも当日になってみないとわからない。

よくよく考えてみれば、食材は自然の恵み。
天候や海の状況等により、それらも同様に時々刻々と変化するのは当然のこと。
日本料理は食材の種類だけでなく、個体差に応じて様々な調理法が存在し、それらを把握しつつ、
その日に仕入れた最良の食材で、自らの感性と技術をもって、どのようにコースを組み立て、
自然の移ろいと味わいをどのように表現するかが職人の力量であり、味わう側にとっても醍醐味でもある。
日本料理は吉兆、辻留、招福楼…等、修行先毎に、独自に解釈された、月毎の決まったコースの基本の型があり、料理人は、その型を壊さぬよう、使用する食材や調理法等を決めて行く側面があるが、
単純に味や価格面の点のみ訴求した場合、
予算の範囲内でそれらの条件に合致した食材を仕入れるより、
縄屋のスタイルの方がより理想的であるのは言うまでもない。
この点においても巷の日本料理店とは一線を画しており、
また、過去の料理の履歴や客の好みまで勘案しつつ、その日の自然の姿を切り取り、
皿の上で表現する縄屋のスタイルは、まさに日本料理のあるべき姿とも言える。

料理の基本のコンセプトは地産地消であり、食材は丹後の海で獲れた魚介類と
主に家庭菜園で育てた有機の野菜類を中心に使用している。
食材のレベルは押しなべて高く、東京や京阪神の同価格帯の日本料理店で、
こちら以上の食材を使用している店を私は他に知らない。
これまでに数えきれない程、店を訪れているが、
唯一食材の質について不満を持ったのは、随分前に口にした鮎のみ。
なお、この数年、着々と独自に食材のルートを開拓し、
必要に応じて、例えば、神経締めで有名な五島の林鮮魚店等、
より良い食材を全国から取り寄せるようにもなった。
実は、当初、私は食材の仕入れルートを広げることに対して懐疑的な立場であった。
というのは、日本料理の礎にあるのは自然に対しての感謝や慈しみの念であり、
例えば、縄屋が東京や大阪、京都の街中に店を構えているのであればわかるが、
自然豊かな京丹後の地で、地の食材を使い、特色ある大変質の高い料理を供しているのに、
今更敢えて、他の地の食材を使う必要があるのか?との疑問が湧いたからである。
例えば韓国産の鱧、由良の赤海胆、有田川の鮎等を料理に盛り込むことで、
夏という日本の四季を表現し、客の舌を満足させることは出来ようが、
縄屋のある京丹後の自然環境に即したものとは言い難く、客の心に響く料理にはなり得ないと私は思う。
また、食材の質を上げることで、東京の多くの店がそうであるように、
客単価に大きく反映されるのではないかと危惧したが、それは杞憂に終わった。
従来の食材や料理のコンセプトは崩すことなく、
それどころか、逆に、吉岡さんの型のない自由なスタイルが活かされ料理の幅がより広がる結果となった。

調味料と調味について。
先日、友人との話の中で、調味料の質や調理技術は素材のレベルの底上げには大切であり、
また、逆にそれらが低いと素材の質自体で成り立っていた店は、
様々な要因により素材の質が低下することで、調味料の質や調理技術の低さが顕著に露呈し、
街場の大衆店へと成り下がるという話になった。
調味料に関して意外と疎かにしている店が多いが、私に言わせれば基本中の基本であり、
裏を返せば、調理器具を含め、拘った物を使うことで、「味だけは」一流店の料理の再現はある程度可能である。
無論、縄屋の料理は食材の質だけでなく、高い調理技術、そして、
酢は地元の飯尾醸造、醤油は和歌山の堀川屋野村等、厳選された調味料の上で成り立っている。

縄屋では、素材を活かし切る、自分が美味しいと思う料理以外出さないという二点が徹底されている。
まず、素材を活かし切るという姿勢を端的に示す例を挙げると「お節」である。
以前、お節を作る際に最も留意する点は?と伺ったことがあるが
「保存性を保ちつつ素材の味を壊さず仕上げること」との回答が返って来た。
一般的に保存性を高めるには、添加物を付与するか、
酸や糖や塩分の濃度を上げることで、微生物の増殖を抑え、物性の変化を抑える等の方法があるが、
味質に及ぼす影響も当然大きくなる。
かつて、お節は残り物の詰め合わせという迷言を残したトンデモ人間もいたが、
世間では、お節を口にする本来の意味をないがしろにし、
保存性の高い、味の強い高級食材を織り込むことがごく当たり前に行われているが、
お節ですら素材の味を最優先で考えるスタンスは流石であると私は感心した。

そしてもう一つ、自分が美味しいと思う料理以外は出さないという端的な例を挙げると、
八寸を出さないことであろうか。
八寸は、山の物、海の物を盛り付け、季節の移ろいと料理人の感性を織り込む、謂わば、日本料理の華というべきもの。
無論、吉兆嵐山、なかひがし、しのはら、堅田の行楽庵のような素晴らしい八寸を供する店もあるが、
残念ながら、季節感のない、単に作り置きを盛り付けただけのような八寸を出す店が世の中には蔓延っている。
時間が経過し表面に不快な焦げ臭が付着している冷めた鯖や鱧の炙り寿司。いつ茹でたかわからない甘みのない海老。
スーパーの御惣菜コーナーに並んでいるような、バイ貝の煮付け、枝豆、鮭といくらのなます、白和え、
養殖の子持ち昆布、鴨のロース、出汁巻き玉子等を仰々しく盛られたところで、私にはあまり有難味を感じられない。
縄屋では手間暇を一切惜しまず、一皿一皿、その場で丁寧に調理した料理のみを出す。
よって、コース全体を通して時間がかかる。

また、拘りの例を他にも挙げると、以下は直接吉岡さんから聞いた訳ではないが、
小鍋のスタイルで料理を出すことはなく、全てカウンターの目の前で調理し、その都度、取り分ける。
繊細な白身の香りがわからなくなる味の強い胡麻の鯛茶もやらない。
素材の旨味を洗い流し味の強い調味料に浸して戴くしゃぶしゃぶの類も出て来ない。
同様に安易に鱧を落として梅肉で食べさせることもしない。
大量の生姜や酒等で味を調えたすっぽんの椀も出て来ない。
鮎を蓼酢で食べさせるやり方もベストであるのか疑問を持たれていた。
無論、後にも述べるが、これらが全て正しいという訳ではなく、
従来のやり方をそのまま安易に全て受け入れるのではなく、
考え抜き、一つ一つ突き詰め自身のスタイルに落とし込みことが大切な訳であり、
確かに、素材の特性や個々の調理法を振り返ってみると、
「それを活かすという観点から」私はなるほどなと共感した。

出汁について。
よく鰹や昆布の出汁がしっかりきいて美味いという表現を目にするが、
私にとって、それらをしっかりと感じる出汁は理想的ではない。
あくまで、出汁は魚介類と野菜の旨味や滋味を引き出す脇役であり、
その存在を主張してはならないものであるからである。
あっさりとして淡麗で、体の中をすっと通り抜ける出汁が理想であり、
鰹の酸味や塩味がたっているものは論外である。
ただし、下卑た舌であるので、貝類お吸い物はコハク酸の割としっかりときいたものを好む傾向がある。
縄屋の出汁は淡麗ではなく割と旨味のしっかりきいた出汁であるが、
主張はせず、主役の食材の旨味、滋味を引き出している完成度の高い出汁である。
無論、お椀も大変上質である。
稀に、椀種と吸い地のバランスを欠いたり、過剰過ぎる(松葉柚子や金時人参等の)演出により
沢煮と見間違うような椀を見掛けるが、縄屋では、そのような椀は一度足りとも出されたことがない。

火入れについて。
これほどまでに素材への火入れの技術が高い職人も稀である。
魚の種類、個体差を見極め、最良の火入れを行う。
以前は、カウンターの右奥にある焼き場で和歌山の備長炭を使い焼き上げていたが、
実質重視で調理場で焼くようになった。
ライブ感はなくなったものの、火入れの満足感は更に向上した。
魚介類の火入れのコントラストが実に巧みであり、
皮目はパリッと焼き上げ、その下の層に行くに従い、食感はレアとなる。
この階層別に焼き上げる発想と技術は縄屋を訪れてた人間であれば誰もが驚かされることと思う。
魚は基本的に、金目鯛や喉黒、鰤に黒睦といった脂ののった魚が中心であり、
これを野菜を発酵させたソース「やこうず」と合わせたり、
発酵させていない鮨飯を粥状にし合わせたスペシャリテ「こなれずし」に仕立てたり、
さっぱりとした有機野菜や薬味を添えることで、魚の旨味を更に昇華させている。
縄屋の焼き魚料理はいずれも絶品揃いである。

お造りについて。
他の項目が料理の基本構成要素や調理技術への訴求であるのに対し、
敢えて、「お造り」としたのには理由がある。
前置きが長くなるが、私は店を新規開拓する際、扱っている酒の種類、使用する食材の産地、食材の仕入ルート、
営業時間と客単価、席数、ロケーション、料理人の修業先等の情報等を参考にするが、
最も重視するのが料理画像である。
よく画像で味がわかるのかとよく言われるが、
見るべきポイントを把握すれば、美味い、不味いの判別や大凡の味がわかるものである。

例えば、一番わかり易いのが色味。具体的には、全体的に色が黒く、濁っている料理は、
食材の質が悪かったり、食材に火が通り過ぎていたり、
調味料が勝ち過ぎていたりすることが往々にしてある。
単に店に行ったという事実だけで満足せず、なぜ、その料理は美味しかったのか、不味かったのか、
また、どうすれば「より」美味しくなるか、調理法、食材の個体差による味質の特性、
食材や調味料の組み合わせ等を後で振り返ったり、
印象が異なる双方の料理の姿、断面を記憶しておくことは非常に大切である。
これを行うのと行わないのでは、情報の少ない店の善し悪しを見分ける能力に雲泥の差が生じる。
私の経験上、店をよく外す人間ほど、口コミサイトのランキングを鵜呑みにし、
好みに合わないと文句をつけたがる傾向があるが、
私からすれば、その人自身に学習能力が備わっていないだけに過ぎない。
能力ある人間は経験、失敗から多くを学び、自ずと店選びの精度も高くなるものである。

店選びの際の画像の話に戻るが、まず、料理のオリジナル性、地の旬の食材の使用の有無、
食材の希少性、コースの構成力、器等を確認し、訪問するに値する店であるか篩にかける。
次に、コース全般の食材の質、素材毎の火の入れ分け、使われている食材の組み合わせ、
出汁の色、盛り付けのセンス、業務用食材使用の有無等を確認し、
その料理が、どのような過程を踏んで作られたか、頭の中で無意識に逆再生する作業を行うのだが、
実は最も注視するのがお造りである。
言うまでもなく、お造りはコースの中で、主となる食材に最も手を加えない一皿であり、
シンプルであるが故に食べさせ方が非常に難しく、包丁技や食材の選び方、薬味や調味料の合わせ方等、
職人としてのセンスや力量の全てが集約されている(と考えている)からである。

具体的に私が確認する項目は以下の通りである。
■質の良い旬の食材のみ盛り付けているか?
■包丁の技術
・包丁を入れる角度
・素材毎の適切な厚さの切り分け~脂質の旨味の強い魚や食感も妙味な蛸や貝類少し厚め(蛸は更に言えばぶつ切りが最も旨いと思うが)
・素材毎の熟成のかけ方
・食感を活かす隠し包丁の有無~烏賊や貝類等
・つまの切り方
■山葵は本山葵か混ぜ山葵か粉か?皮を削ぎおとし、どのように卸しているか?
■紅葉卸しは業務用か自家製か?
■御造りに合わせる薬味や調味料は適切か、また薬味は過剰ではないか?
■醤油は業務用か、自家調合か?(これは食べてみないとわからないが)
■盛り付けや器を合わせるセンス

流石に、ある程度の店ともなると、お造りとお造りの間にレモンを挟む、タンポポの飾りや木の葉型の混ぜ山葵を添える、
カイワレ大根を乗せる、黒い雲丹や甘海老を平気で盛るというような、居酒屋紛いのお造りを出して来ることはないが、
年間を通して内容が殆ど変わらず、(中途半端な質の)鮪、鮃、鯛、烏賊、甘海老、赤貝等を
数種類を形式的に仰々しく盛り付け、大葉に大根、花紫蘇を添えて、出してくるところは意外と多い。
正直、例え日本料理の一流店であろうと、鮨屋のそれと比べると、食材の質にかなりの差があるので、
私の場合、(被る食材を出されると)それまでの抑揚感が一気に削がれてしまうことが往々にしてある。
特に鮪は私にとっては鬼門のネタの一つである。
私が好む料理人は、お造りは必要以上に種類を揃えず質重視。
また、無理に鮪は使わず、その時の旬の魚を選ぶ傾向がある。

山葵であるが、本山葵をどのようにすっているかが重要であり、
卸している道具は鮫皮か?おろし金か?セラミックか?は、結果が全ての私にとっては、大して重要ではない。
また、どのような調味料を合わせて来るかは非常に重要であり、
繊細な白身には出汁で割った薄口醤油やちり酢、煎り酒、藻塩、肝醤油、
脂の旨味の強い魚や烏賊、貝類等には出汁で割った濃口醤油など、
最低限、その程度の配慮がなされているかも店を選ぶ上での判断材料である。

薬味が過剰な店も私は避ける。最近、(特に若手職人で)多く目にするのが、花穂紫蘇による過剰な演出である。
花穂紫蘇が大量に散らされた白身魚を美しいと思う感性や旨いと思う味覚を生憎、私は持ち合わせていない。
主となる食材の味まで変容させてしまうような演出は論外であり、食材は自然のままの姿が最も美しいと思うのである。
五色の胡麻や金箔を乗せる等、私に言わせると悪趣味以外、何物でもない。
(御造りより揚げ物に多く使用されるが)抹茶塩に関しては存在意義すらよくわからない。
余計な一手間を加えたり、飾り付けをすることで主役となる食材の味を壊すのが腕の悪い料理人、
隠し包丁により食感を引き立て、薬味、添え物により 食材の味を引き立てるのが腕の良い料理人と私は思う。

以上、私がお造りに求める条件、見るべき点をを明記したが、
世間で評判が良いとされる店でも、私からすると大凡9割が敢えて口にしたいお造りを出していない。
縄屋のお造りであるが、食材は地元で揚がった旬の上質な白身魚が中心。
鮪は無理して使用することはなく、私は横輪くらいしか見た記憶がない。
山葵は本山葵で、お造りを供する直前に(恐らく)おろし金を使用し肌理細やかに卸したもの。
実は卸し方一つとっても職人の技量や店の考え方の差がハッキリと出る。また、合わせる調味料や薬味も巧み。
お造りではないが、以前、焼いた鱸(すずき)の調味料として、
トマト(グルタミン酸)とビールの苦み(コクや複雑な旨味)を調合したものが供されたのだが、
その食品工学の知識を活かした配合のセンスに私は脱帽した。
斬新な食材の組み合わせを行うが、食材の味を壊す過剰な演出は嫌う。
無論、花穂紫蘇による過剰演出等もしない。
食材の組み合わせや魅せ方には訪問の都度驚きがあり、
例えば、4月から5月の山菜の時期になると、それらが添え物として供されるのだが、
これが目にも舌にも美味しく、この時期に縄屋を訪れる私の楽しみでもある。
私の中で、お造りでも楽しませてくれる本当に数少ない日本料理店が、この縄屋である。

立地、器、しつらえについて。
私は日本全国の店を回っているが、縄屋はその中でも一、二位を争うほどあり得ない立地にある。
いくら地元であるとか、和久傳創業の地への想いがある等の理由があっても、
自身の腕に相当な自信があり、成功する算段がなければ、この地に開業しようとはまず思わないだろう。
縄屋は、料理のスタイルや食材だけでなく、建物や器、設えにも相当な拘りがある。
まず、建物は吉岡さん自ら建築について勉強し、設計、施工にまで携わったというから何とも驚きである。
テーブルやイスの形や材質も全て特注であり、器選びだけでなく、そのセンスがいずれも図抜けている。
料理の着物である器に関しては、修業時代からコツコツと器を収集していただけあり造詣も深い。
店で使われる器は地元の陶芸作家・浅田尚道他、銀座CHIUnEでもお馴染みの岸野寛、
中川自然坊、余宮隆、高山正道、佃慎吾等、非常にセンスの良い若手作家の器を中心に揃えている。
京都の老舗のような時代を感じる古い器や老齢の作家の作品は殆ど見た記憶がないが、
縄屋の料理には若手の作品が雰囲気的にもより合致しているように思う。
私が思うに、料理だけでなく、ここまで設えや器にまで拘るとなると、まず「雇われ」では非常に困難。
また、独立し、主要都市で店を構えた場合でも、当然、地代に加え、店への投資費用を回収せねばならないので、
当然、それらを客単価へと反映せざるを得ない。
細かく試算したわけではないが、恐らく、同じことを一から京都市内で行うとなると、
少なく見積もっても客単価二万円~は下らないと思われる。
縄屋は地元の食材ルートと家族経営である利を最大限活かし、
質の高い食材の料理をセンスの設えと器で持て成すことを、
あり得ない程の低い価格体系で具現化しているのである。

接客について。
御主人の吉岡さんは、どちらかというと孤高の芸術家肌のタイプ。
客に愛想を振りまいたり、ましてや○○劇場のようなパフォーマンスをするタイプ等では絶対ない。
食材や料理を誉めてもいつも淡々とした表情を浮かべている。
必要以上のことは語らず、もてなしの心は全て皿の上で表現する。
コースに時間がかかる上に、すぐに調理場に引っ込んでしまうので、それを不満に思う客もいるだろう。
だが考えてみて欲しい。この数年、お昼にお手頃な価格帯のランチメニューで客を集め、
口コミで人気が高まると、昼の営業はやめ、夜にシフトする店が目立つ。
店も商売であるし、元々ランチは客集めの意味合いも強いことから、それはそれとして理解できるが、問題はここから。
人気に火が付くと、調理技術、そして食材にかける手間暇はそのままで、
扱う食材の幅を(少しだけ)広げ、質も(少しだけ)上げているだけに過ぎないにも関わらず、
相場の世界で言う仕手筋が介入した銘柄の如く、短期で価格帯を二倍、
店によっては三倍へと吊り上がるケースが非常に目立つ。
かつて店を支えていた、いつも愛想を振り撒いて接していた常連達をどのように考えているのだろうか?
逆に、縄屋は口コミで人気が高まろうが、価格を殆ど上げず、
それどころか、技術の希求は怠らず、食材の質までも高めている。
どちらが、本当に誠実な店の姿であるかは考えるまでの余地もない。

縄屋を訪れる際の留意点について。
前置きは長くなるが、私が飲食店を訪問するスタンスは、まず食材のテーマを決定し、
その食材のベストな状態で口にするには、日本全国のどの店にいつ行けば良いか、
その年の天候や海流、地域毎に異なるの食材の特徴や旬まで頭に入れ、店を予約する。
予約日は、本来、訪問日は日単位が望ましいが、
遠方の場合、仕事や人数の問題もあり現実的には難しいので、週単位で決定する。
その上で予約の際に、どのような食材を食べたいか、また自分が希望する料理のコンセプトを伝え、
また、新規店の場合は、ネットに画像があれば、それを元に調理法の得手、不得手の把握し、
場合によっては調理法やコースの組み立てに至るまで角が立たないように細かく指示を出す場合もある。
訪問時期を考えず、どの店でもアレルゲンや苦手な食材だけ伝えて後は全てお任せしてしまう人もかなりいるようだが、
私に言わせると店に対し何かしらのアクションを起こすのと起こさないのとのでは、同じ店に訪問したとしても
出される料理のレベルが全く異なる。
料理人にやる気を起こさせるのも食べ手側の力量次第と思う。

ただ店によっては、そういったことをしてしまうと本来の力が発揮し辛くなるケースもある。
縄屋はその日の旬の上質な食材だけを使ってコースを組み立てるので、
食材の要望は「○○が食べたいが、もし良いものが入れば」くらいに留めておいた方が良い。
また、蟹は美味いが、縄屋独自の料理が楽しめないので、初めての方にはお勧めはしない。
また、前述した通り、愛想の良い接客や一皿毎に料理人との会話や蘊蓄の類を楽しみたい方にはまず無理だろう。
八寸がなく、全てその場で調理したものしか出さないのでコースを通して時間がかかるので料理間隔が長いのが苦手な人、
どのような食材が出てくるか当日までわからないだけでなく、コースの構成が非常に独特なので、
日本料理はこうあるべきという固定観念を持たれている人も合わないかもしれない。
また、逆に料理人がその土地の旬の食材を如何に美味しく食べさせるかにひたすら重きを置かれている方であれば、
間違いなく満足できる店と思われる。

料理に対するスタンス、食材、調理技術、器、設え、価格的な優位性等の観点から、
如何に縄屋が独自のスタイルを構築した佳店であるかを私なりの見解で述べてみた。
ただ、縄屋は日本料理というジャンルにおいて、(私の中での)頂(いただき)の一つに過ぎない。
世界の登山家が目指す山がエベレストだけではないのと同様、頂は一つではない。
森羅万象を独自の形式で表現を主とする、芸術(代替芸術・表現芸術)の世界では、言うまでもなく多くの頂が存在する。
例えば、絵画の世界では、同時代を生きたピカソとマネ、ゴーギャンとセザンヌ、ダリとデ・キリコ。
彼らは色彩や絵画における表現や考え方等が対照的であったが、
いずれもが歴史に名を残す巨匠、言うなれば頂。
料理は消費され、舌と心の中でたった一度記憶され、
写真や絵画や映像、建築等は、そのままの形で記録、(再度の鑑賞により)反復的に記憶されるという違いはあるものの、
料理は科学であると同時に芸術にも通じ点が多分にあると私は思う。
日本料理の職人は五法・五味・五色・五適・五覚を礎とし、
食材を通して四季、自然への感謝の念、もてなしの心を食べ手に伝える表現者。

先日、友人との会話の中で、「温故知新こそが料理並びに芸術の極意。
古典や系譜を知らずしてモダンはあり得ない」という話が出た。
この数年、若手と熟練職人の間で、料理や接客におけるスタンスの違いがこれまで以上に顕著に現れているように思う。
私が思うに、若手職人は、情報力と行動力を駆使し、生産者との繋がりによる独自の仕入れ、
ジャンルを超えた職人同士との交流による調理技術の習得、
様々なエリアやジャンルを食べ歩くことで磨かれた舌により、素材の魅せ方や引き出し方、素材同士の合わせ方が実に巧み。
独自の感性や自由で柔軟な発想から繰り広げられる食材の持つ可能性へと希求した皿の数々には多くの驚きや発見があるし、
従来のやり方に捕らわれることなく、様々な調理法、食材を取り入れ柔軟な発想により独自の世界観を構築。
粗削りながらも様々な可能性を秘めた料理のスタイルや人としての成長を追いかける楽しみもある。
あくまで私見ではあるが、素材に対する知識、足し算の仕事、火入れの技術、盛付け、接客により
人心を掴む術(すべ)は若手が上と思うことが多い。
なお、これまでは、将来有望な若手を客単価が安い、
技術料が反映されないうちに見つける青田刈り的な楽しみもあったが、
今の若手はこぞって一流の食材を使いたがり、熟練職人の店の方が却って安い場合が多いのが、
まさに皮肉とも言うべきところ。
また、若手による食材の奪い合いにより、日本料理や鮨屋の単価が跳ね上がっている現状は苦慮すべき点ではある。

一方、熟練の職人は、古典的な仕事、枯れた技が何よりの魅力。
特に独自性、希少性があるほど味覚や心の琴線に触れるし、
その仕事自体、歴史的、文化的意義が備わっていることも多々ある。
包丁技や引き算の仕事の上手さ、枯れた仕事は熟練の職人でなければ辿り着けない境地があるとも思うし、
また、長年に渡って自然と培われた客あしらいや、
客との会話の間(ま)、そして自らの威厳と誇りを持って調理場に立つ、その姿は神々しさすら感じる時がある。
若手の方が素材の引き出し方が巧みな職人が多い一方、シンプルで味のイメージがしやすい昔ながらの仕事ほど、
舌に響き、基本的な満足度が高いと思うことが不思議と多い。
また、何か月、何年待ちといった予約の電話が繋がらないという異常事態はなく、
肩肘張らず、日常遣い出来る店が多いのも魅力である。
熟練職人の店は、その建物や技術だけでなく、その職人の存在自体が大きな意義を持ち、
閉店を耳にすると行かなかったことを後悔することも多々あり、
個人的には、その土地で今しか食べられない希少食材と並んで回るべき優先順位が実は最も高かったりする。

近年、古典を軽んずる傾向があるが、先人が築き上げた調理法や
考案した料理、コースの形式が長い年月を経て現在(いま)の姿に落ち着いたのは、
先にも述べた通り、文化的な意義や歴史的な背景が隠されていることが往々にしてある為、
敬意をもって解釈されるべきであると思う。
例えば、存在意義について疑問を投げかけた八寸などはその最たるものであろう。
また同様に、調理法について疑問を投げかけた鱧湯引き、しゃぶしゃぶ等についても、
私自身、それはそれとして楽しんでおり、後世に受け継がれていくべきものとも思っている。

ジャンルを幅広く食べ歩き比較することで それぞれの料理の特徴や傾向を把握出来、
また、同じジャンルでも異なる価格帯、地域性、郷土料理、食文化、職人の年齢や性差、
修行先、扱っている食材の種類や質、仕入れルート、組み合わせ、調理技術等を意識しながら食べ分けることで、
細かな傾向が把握でき食や店、そして自分が好む料理の傾向に対する理解がより深まる。
評判の良い若手の店ばかりスタンプラリー的に回っても食幹は鍛えられない。
また逆に熟練職人ばかり回っても食材の持つ新たな可能性に対する視野は広がらない。
大切なのは、スタンスの違う店を食べ比べ、人の意見に流されることなく、自分の舌で違いを感じ取り考えを持つことであり、
また、そうした経験を積み重ねることで、感性が養われ、味覚に対する軸が出来、料理の本質が見えて来るように思う。
舌や知識を養うことにより、それまで不変と信じて疑わなかった店の評価や
価値観がガラリと一変することが多々あるのも食べ歩きの面白いところではある。

四方を海に囲まれ、国土の70%近くを森林で占められた自然豊かな日本列島。
亜熱帯から暖温帯、冷温帯、 亜寒帯までの幅広い気候帯、
暖流(日本海流)・寒流(千島海流)双方の海流による自然環境や気候変動、
四季折々の移ろいにより、山、川、海と多様な森、
そこに息づく動植物が、都度、違った表情を魅せ、日本人は自然と共生し、生かされ、
独自の自然に対する繊細な感覚を磨き、今日までの発展を遂げて来た。
言うまでもなく、日本文化の礎は自然に対する感謝、そして畏敬の念であり、
それは茶道、香道、華道といった所謂、三道や武芸、年中行事等にも共通する概念。
食事の際の「いただきます」と言葉を発するのは命への慈しみと、それを育んだ自然に対する感謝の念、
また短歌や俳句の季語や手紙の書き出しにも季節の言葉を織り込み、
魚も種類によって季節毎に呼び名を変えるものもあり、
御伽話や昔話に見られる自然秩序を破る者に対しての天罰等もその一つの表れである。
日本料理も同様の背景があるからこそ、料理人は休日の合間にも伝統芸能や文化を知見し、
その心を学び、芸術鑑賞を通じて感性を磨き、旬の食材を使って調理し、コースを通じての起承転結を考えながら、
四季の移ろいによる自然の恵みへの感謝の念、そして感性を織り込み、
その土地土地で作陶された表情豊かな器に盛り付け、一期一会の感謝の気持ち、持て成し心までも表現する。
無論、設え等の演出もかかせない。
五感で楽しむ、目に見えない細やかな心、演出こそ日本文化の美徳であり、
客側も料理の美味しい不味いといった味覚的要素だけでなく、経験や教養、感性までもが試される。
栄養や味、コストパフォーマンスが主となる家庭で作る料理や定食屋で出される料理とは、
この点が根本的かつ決定的に異なる点である。
また前述したが、一期一会は主(あるじ)と客だけでなく食材にも通じる。
例えば、食材の種類だけでなく、季節毎、また個体差により、それに即した数多の調理法が存在するのもその表れであり、
私が思うに、五味や色味は勿論、食感や香りにおいて、これほどまでに繊細で、
食材に対して敬意を払った調理法は世界に類がないということ。

近年、流行りの日本料理で私が思うのは、クリームチーズ、キャビア、フォアグラ、蟹(味噌)、鱶鰭、トリュフ、海胆、
唐墨、鮟肝、大トロ、霜降り牛、鮑、金華ハム等、世界や全国から取り寄せた濃厚な旨味を持つ、
豪華高級食を随所に盛り込んだ料理が幅を利かせている。
無論、その産地である等の理由や作り手としての明確な意図があったり、
アクセントとしてワンポイントに使用する分には良いが、
それが何皿も続くとゲンナリする。
私にとってこれらの料理は、その時の舌だけを満足させる料理であり、
四季の移ろいや自然への感謝の念等は全く感じられず心まで満たす料理とは程遠い。
世界の食材を使用することでスケールの大きな料理と讚美する向きもあるようだが、
日本料理の醍醐味は季節感や、それらの食材が本来持つ繊細な旨味、滋味であり、
私からすると、「わかりやすい旨味の料理は底が浅く、滋味な料理ほど深い」のである。
水菓子に杏仁豆腐、クレームブリュレ、パンナコッタ、ティラミス等まで出されると、
どこの国の料理だろう?とすら思ってしまう。

また、全国から取り寄せたブランド食材のオールスターでコースを固める必要もないと思っている。
人間だって優等生ばかりではつまらないのと同様で
世の中、色々な人間がいて、それぞれ何かしらの個性や良さがあるから刺激や発見があり面白いのである。
その時々の食材を料理人が技術と感性で調理し、個々の良さを引き出し、
それを口にすることで、現在(いま)の自然の姿を感じ取る要素も私は大切にしたい。
また、陽の目を浴びていないが上質、或いは個性ある食材に出会った時の喜びは食べ歩きの醍醐味であり、私自身、それを非常に楽しみにしているのもある。
昨年の熊鍋や花山椒の右ヘ倣への使用も気になる。
各自が何かしらの意図を持って出しているのであれば良いが、
単に「ブームだから」、「客が喜ぶから」にしか、私は思えない。
無論、古典とされている料理も、時代と共に姿形変え、
現在(いま)に至っている経緯があり、新しい試みはあって然るべきとも思う。

長い年月の中で進化、変容するのは万物に共通する自然の理。
新たな試みを行う開拓者がいなければ発展はないし、
また、それにより先人が築き上げた物が見直され、再評価される契機にもなる。
この数年、ネットの普及、物流革命、規制緩和が進み、
料理の世界もジャンルの垣根が低くなって来たのは、以前のレビューでも述べた通り。
新たな食材や調理技術の試みによる変革、変容は歓迎であるが、自然の移ろいや食材への感謝を表現し、
食べ手の心まで豊かにするという、世界に誇る日本料理の礎は変わらないで欲しいし、変えてはならないと思う。

頂の話に戻るが、料理の世界では扱う食材の数や調理工程が多様な、
コースで供されるジャンル程、多くの頂(いただき)があるのが持論。
特に日本料理は、その歴史や背景もあることから、最も多くの表現形式、頂があるように思う。
経験が少ないうちはこれまで、個々の皿(料理)同士の味の比較であったのが、
食材や調味料や器や設えにまで興味を持ち、
更に日本文化に対する理解まで深めれば、職人が一連のコースで何を表現したかったのか?
自ずと認識できるようになることで頂も増え、職人ないしは日本料理に対する敬意も深まる。

私の場合の日本料理の若手職人の頂の一つが縄屋や都内の某店であり、
熟練職人の頂が、今は無き桜田、そして大津の行楽庵、徳島の壺中庵、能登のさか本等である。
人の価値観はそれぞれであり、何に重きを置くかで、この頂は当然異なるであろうし、
更に言えば、経験や年齢、生活環境の変化に伴い、自身の頂も変わって来る。
どの場所にある店でどの食材が使われ、それがどのように調理され、どのような形(盛付け、器)で、
どのような順番で供され、それによって何を感じるか、設えも含め、その解釈は食べ手の経験や、教養、感性に委ねられる。
頂の職人同士は食材や調理法、コースの組み立て及び考え方が異なることが意外と多い。
それらは一つの意見として尊重しつつ、
これまでの経験をもとに、自身の考えに落とし込み価値観を持つことが美食への本質、真理への近道。
無論、正解はない。
数多の経験や知見、視野を持つ人間であればこそ、多くの頂の認識があってしかるべきである。

私が冒頭に触れた、京都や大阪の主要都市には優れた腕を持つ職人が数多いるにも関わらず、なぜ敢えて縄屋に通うのか、その理由は上に述べた通り。
日本料理全般についても色々述べたが、私が縄屋を評価しているのは、従来のやり方に捕われず新しい試みをしつつも、
食材に対して敬意を払い、その味を活かし切るという、全くぶれることのない、そのスタンスも主要因の一つである。
一流の腕と感性豊かな職人が故郷に帰り、器や設え等細部に至るまで拘り抜き、自然に対する感謝と四季への想いを、
その土地の食材で表現し、客を持て成すというのは、
まさに日本料理のあるべき究極の姿であり、これこそまさにテロワールに他ならない。
東京から距離にして大凡600km。交通の便は悪く、間違っても近いとは言えないが、
そこに縄屋がある限り、京丹後の地まで私は通い続ける。

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2017/10/05 更新

1回目

2011/11 訪問

  • 夜の点数:5.0

    • [ 料理・味5.0
    • | サービス4.2
    • | 雰囲気4.6
    • | CP4.2
    • | 酒・ドリンク-
    ¥20,000~¥29,999
    / 1人
  • 昼の点数:5.0

    • [ 料理・味5.0
    • | サービス4.2
    • | 雰囲気4.6
    • | CP4.2
    • | 酒・ドリンク-
    ¥8,000~¥9,999
    / 1人

2011年に訪問した店の中で、ベスト3に入ります。

私が本年訪問した店の中で、最も気に行った日本料理店の一軒が、ここ縄屋である。
御主人の吉岡氏は、京都の和久傳出身であるとのことだが、
私が知る限り、関西の若手では最高の腕とセンスを兼ね備えた料理人の一人であるように思う。

まず本年の6月に訪問し、かなりの満足感が得られたので、
11月に日本海の冬の味覚の王様である「ズワイガニ」を目当てに再訪した。

今回戴いたズワイガニは、カニビルが甲羅にびっしりと張り付いた、津居山蟹。
身の入りもしっかりとした見事な番蟹を我々の目の前で調理して戴いた。
備長炭で炙った焼き蟹、昆布出汁の鍋、日本酒を加えた蟹味噌等が供されたが、
いずれも、目から鱗のお味だった。

私は、毎年ズワイを目当てに日本海側に足を運んでいるが、
正直、素材だけなら、こちらと同等以上の蟹を扱う民宿や料理店を何軒か知っている。
しかし、いつも思うのは、扱う素材は極上なれど、調理技術に長けてないせいか、
焼き蟹の火の通し方や、蟹鍋の出汁にしても詰めの甘さが残るし、
お造りの山葵は混ぜ山葵、御新香は市販の着色系のもの・・・と、
どうもそういった部分が引っ掛かり、気持ちが最高潮にまで達しないのである。
言うまでもなく、こちらの店に関しては、そういった心配は一切する必要はない。
今回は、蟹がメインであったが、合間に供された、
「津田蕪と鰤のこなれずし」や「胡椒を使ったたマッシュルームと栗の茶碗蒸し」、
そして、「コリアンダーを使った掻き揚げと日本蕎麦」なども、実に美味しかった。

店で供される料理は、地の旬の食材を用いて、「素材を活かす」という基本を押さえつつ、
和洋折衷の要素を取り入れ、見事なまでに昇華させている。
近年、日本料理の世界において和洋折衷が盛んに取り入れられるようになって来たが、
口にする度に、その難しさを感じている。
というのは、料理というものは、謂わば、先人達が長い年月をかけ、余分な部分を削ぎ落とした産物である。
よって、異なる食文化の要素を取り入れると、見た目には宜しいが、
実際、口にしてみると、何とも深みのない、
安っぽい料理になってしまっていることが往々にしてあるからである。
ただ、こちらの料理は、その「洋」の部分が、「料理」、更に言えば、「コース全体」に
良い意味で、アクセントとなり深みを与えているように思う。

詳細は控えるが、6月訪問時に戴いた鳥貝も実に素晴らしかった。
その大きさ、厚み、食感、風味(甘み)、いずれも東京では、なかなかお目にかかれない一品であった。
肉厚で、噛むとどこまでも「甘い」、巨大な鳥貝は、祇園「さヽ木で戴いた七尾の鳥貝も凄かったが、
それ以上の代物だったように思う。
聞けば、舞鶴は御主人の地元なので、漁師はほぼ全員が顔馴染み。
港で揚がる魚介類は、どこで獲れたかだけでなく、誰が獲ったか?まで、把握しているという。
よって、その日に揚がった最上の素材を手に入れることが出来る訳である。

今回は、「蟹」を戴いたので、金額は2万となったが、
普段は1万もあれば十分満足出来る、費用対満足度に優れた佳店である。
御主人の技術と山海の幸が詰まった「お節」(12月10日迄)も、まだ余りがあるとのことなので、
御興味のある方は、一度、問い合わせしてみることをお勧めする。

あまり人に教えたくない一軒でしたが、来年12月迄の予約が全て完了したので、
思い切ってレビューすることにしました。

  • 津居山蟹

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