中村勘三郎の訃報は、私に大きな喪失感を与えました。
悲しみというよりは何か大切なものを失ったような喪失感で、いまだにやる気が出ません。
訃報を知ったその日の夜、Minmiの10周年TourLiveで多少は慰められたものの、
TVや新聞のしつこい報道で、何度も現実に引き戻されました。
生来の泣き虫なのですが、歳を重ねてから更に一層感受性が強くなり、
最近ではちょっとしたことですぐ涙がこぼれます。
しかし、今回は涙が出ませんでした。
なんということでしょう。
感受性さえも壊れてしまうほどのショックだと言うことなのでしょうか。
しばらく自分のことが解せませんでした。
そういえばこの話、料理人にも通じますね。
料理人の命も無限ではありません。
役者と同じです。
飲食店というものが当たり前のように存在すると思われがちですが、
料理人の個性が全面に出ている飲食店や家族経営店は、
跡継ぎや味の継承がなければ普通に消滅します。
多くの名店がそういう理由で消えるたび、私は記憶を追いかけるように後悔の涙を流すのです。
料理人に才能があっても初心を忘れて奢ったり、努力を怠れば、お客は自然と離れます。
これも役者と似ていますね。
若い頃は修行不足や不勉強だったり、お金が入ると目が眩んでお客を舐めるようになります。
また老いれば勘も鈍り、かつての栄光を鼻にかけたり、保身に走る方が大勢おります。
前者では湯島の焼鳥屋がそれに当たり、後者では赤坂の天ぷら屋がそれに該当しますかね。
昔はいい店でも味は落ちるし、ダメだった店が復活することもありますが、
いずれにせよお店や料理人の名声は、その方のポリシー次第ですね。
その中で役者や料理人の中にも才能と志のある者が鍛錬精進し、常に謙虚に高みを望む方がいます。
そういう方が創り出す無形の作品は、人智を超えた感動を与えたりするわけですが、
それに一度触れてしまった私は、感動の再演を生き甲斐にお店や芝居を日々探していると言えます。
飲食も芝居と同じ“アライブalive”です。
それは決して後戻り出来ない連続する一瞬を、再び繰り返す幻影世界。
コピーでないから、いつも出来がいいとは限らない。
魚だって、肉だって、果物だって昨日食べたものは昨日食べたもの。
命はいつだってその一つしか宇宙に存在しない。
っていうことは、私がいま口にしたものは一回こっきりの味ということになります。
芝居と何一つ変わらないですね。
あらためて、私は芝居も飲食も好きな意味がよくわかりました。
勘三郎を天才だとか革命児とか、みなさん口を揃えて言いますけど、
ぶっちゃけ歌舞伎役者として、演じた芝居がどれも抜群に面白かった。
つまり飲食で言えば、
あの料理人の作った一回こっきりの一皿はどれも抜群に美味かった、ということです。
その根本的なことを、強く声を大にして言いたいと思います。
勘三郎の芝居を生でいっぱい味わっておいて本当によかったです。
ありがとうございました、勘三郎さん。
そなたは、そなたは、あ、さくらひめぇぇぇぇ・・・・・・。
七海